イザベラ・バードは1878年(明治11年)およそ140年前の6月から9月にかけて日本の奥地を旅したイギリス人旅行家で、[日本奥地紀行]の中で当時の6月の雨の降る日光、小佐越、藤原、川治 五十里、を実にすばらしい描写でこの地が書かれております。
日本を賛美するだけの文章表現だけでなく、当時の日本の奥地の生活の様子など、忠実に描いており、外国人から見た140年前の日本を伝える意味では非常に貴重な本となっております。
現在では、五十里と言えば、五十里ダムと五十里湖を意味しますが、当時は、湖の底に村があり、イザベラはそこを目指していた事となります。今回のライドでは、五十里ダムの全面工事のため、湖の水が抜かれており、当時の村の様子が見られますので、湖底に沈んだ川の流れた後や、当時使われていた橋下駄、その後に作られた水力発電用の取水口 排水口など、おそらくイザベラ・バード当時の景色が見られますのである意味チャンスかもしれません。
また、イザベラ・バードの宿泊は、藤原一泊 川治一泊 山王峠を越えて川島まで6泊していて、当時の険しい道であった事が伺えます。
日本奥地紀行の中での 藤原、川治 五十里付近の一節
日本奥地紀行のこの付近の描写を書き込みましたので、是非 御一読下さい
—以下、日本奥地紀行より—
私達は土砂降りの中を5マイル先の五十里を目指して出発しました。新しく出来た通路を行きましたが、この通路は滝の様に流れる鬼怒川にすっかり閉じ込められ岩肌から川の上に突き出ている支柱に乗っていて、ある時は低くある時は高く続きます。日本にこれより素敵な物は無いでしょう。
川は常に青か緑に澄み切っており、雨で大幅に増水していて鮮やかな色の岩の間を勢い良く流れています。川を取り囲む高い山々は、見事な木々に覆われ、下方には暗い峡谷の裂け目が入っています。その峡谷を急流が泡と飛沫を上げて流れ、岩に水の当たって砕ける音とほとばしる轟音は、谺で何倍にも膨れ上がります。緑のあまりの豊かさに、私は灰色の絶壁や何も生えていない岩肌が見えるのをむしろ歓迎したものでした。
緑の葉は、また素朴な通路を越えて川にも垂れ下がり、頭上には、何種類かのカエデの細かな切れ込みの入った、羽の様な葉が光を浴びて、まるで緑の靄の様に見えます。ローズ色のツツジが、今も山腹に彩りを添え、杉林は深みと陰影を与えています。このままでも十分美しいのですが、10分ばかり陽光が射すと、すべてがおとぎの国に変わるのです。
[日本奥地紀行]について Wikiからの抜粋
1878年(明治11年)6月から9月にかけ『日本奥地紀行』はイザベラ・バードにより執筆され、1880年(明治13年)に “Unbeaten Tracks in Japan“(直訳すると「日本における人跡未踏の道」)として刊行された。冒頭の「はしがき」では「(私の)全行程を踏破したヨーロッパ人はこれまでに一人もいなかった」としるし、また「西洋人のよく出かけるところは、日光を例外として詳しくは述べなかった」と記し、この紀行が既存の日本旅行記とは性格を異にすることを明言している[8]。[日本奥地紀行]について Wikiからの抜粋
栃木県壬生町から鹿沼市の日光杉並木に至る例幣使街道では、よく手入れされた大麻畑や街道沿いの景色に日本の美しさを実感したと書いている。また日光で滞在した金谷邸(カナヤ・カッテージ・イン)にはその内外に日本の牧歌的生活があると絶賛し、ここに丸々2週間滞在して日光東照宮をはじめ、日光の景勝地を家主金谷善一郎および通訳の伊藤とともに探訪する。[9]
日光滞在10日目には奥日光を訪れるが、梅雨時の豊かな水と日光に育まれた植生、コケ、シダ、木々の深緑と鮮やかに咲く花々が中禅寺湖、男体山、華厳滝、竜頭滝、戦場ヶ原、湯滝、湯元湖を彩る様を闊達に描写し絶賛している。
日本について
私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている
とも書かれております。